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解く・解ける事の楽しさ

中学生や高校生を見ていると、勉強が苦痛と感じているのが見受けられます。

何故なのでしょう!

《わからない》から苦痛なのでしょうが、わかる術を知らない、自己解決しようとしない、からではないでしょうか。直ぐに聞く。聞かれた側も、直ぐに教える。結果、わかったつもりになる。しかし時間が経つと出来ない。

もっと《解く》という事の楽しさを小学校の頃から知っておく、《解ける》という自分を知っておく、《解けた》時の喜びを実感しておく事が非常に大切だと思います。

そこで下記のような記事を見つけましたので参考までに紹介します。
指導する/教える側の視点から考えさせられる内容です。
記事を読んだ後での私の実感として、中学生/高校生になってから勉強の楽しさを教えるには難しい。

〜参照記事〜

あるところに逆上がりの出来ない女の子が居ました。
授業で必死に練習しましたが、残念ながらできるようにはなりませんでした。落ち込む女の子を見た担任の先生は「放課後、一緒に練習しよう」と声をかけます。それからの放課後、先生とのマンツーマン練習が始まりました。

練習は毎日の放課後、担任の先生とマンツーマン。女の子は真面目に練習をして、先生も頑張ってアドバイスを掛けます。そんな練習も数週間が経ったある日、ついにその時が来ました。

ついに彼女は逆上がりを成功させました。初めての成功に女の子は大喜びです。先生も我が事のように一緒に喜びます。
次の瞬間、女の子は喜びながらこうつぶやきました。

「もうこれで、逆上がりの練習しなくて良いんだね!!」

これは実話です。
この話はスポーツを初め、運動指導に携わる人全てに大きな疑問を投げかけていきます。スポーツを教えるとは何か、子どもが本当に求めているものは何なのかを改めて考えたいと思います。
本当に子どもは技を習得したいのか?
スポーツ指導に携わる人は「上達」「習得」は素晴らしいと信じています。できなかった技ができるようになる、教える側にも教わる側にも達成感が生まれる瞬間です。

先に上げた女の子は逆上がりという技を習得し鉄棒の技術も上達しました。しかし最後に先生に投げかけたセリフは逆上がり・鉄棒との断絶宣言です。なぜ女の子の口からはこんなセリフが出たのでしょうか?
きっと、女の子の本心は「逆上がりが出来るか?」なんてどうでも良かったのだと思います。出来なくてもいいし、出来れば出来たで嬉しい。でも先生が必死に教えてくれるから練習しなきゃ。。。あぁ、あとどのぐらいこの練習は続くのかな。こんな心の声が聞こえてきそうです。
しかし先生はこの気持ちに気付くことが出来ませんでした。授業中に出来なかった事が悔しかったに違いない、それじゃ一肌脱いで逆上がりが出来るまで練習に付きあおう!と言った感じでしょうか。

女の子の思いとは裏腹に、出来なくて悔しがっている → 達成できたら喜ぶに違いない、という方程式が見えてきます。
技を教えるより大切だったこの先生の例は極端でしたが、似たようなケースが運動指導・スポーツ指導の現場でも見られると思います。

たとえば縄跳びでも「難しい技を跳べたら嬉しいに違いない!」という教える側の勝手な思い込みにより、子どもが望んでいないのに無理矢理に難易度の高い技を教えようとするコーチがいました。それは本末転倒です。
新しい技や初めての動きを修得するためには、反復練習が必要です。しかし地味な練習を繰り返し、しかも失敗ばかりする練習のどこが楽しいでしょうか。子どもたちの集中力はみるみる削がれていき、その場にしゃがみ込む子も出てくる始末です。

失敗の原因は順番を間違えたこと。技を教えるより、まず初めに運動そのものの楽しさを伝えなければいけなかったのです。縄跳びって楽しいね!!この遊び楽しいね!!と思ってもらうことが最優先でした。

楽しさを自分自身で見いだした子どもに小手先の指導テクニックは必要ありません。放っておいても勝手に練習を続けます。こちらが技を提供すればスポンジのように吸収していきます。
まず「運動そのものに楽しさを感じられる」という素地を作ることが重要なのです。
まとめ
子どもに運動を教えるとき、大人は「逆上がり」「二重跳び」などのわかりやすい目標に目が行きがちです。確かに上達・習得は素晴らし経験でしょう。しかしこれらの目標は運動・スポーツの一側面に過ぎません。
技や理論だけでなく、運動の「楽しさ」や「やりがい」をシッカリと次世代に伝えていきたいですね。

〜参照記事 終了〜